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2017

映画レビュー:No.594 三度目の殺人

三度目の殺人
124分 / 日本
公開:2017年9月9日
監督:是枝裕和
出演:福山雅治
役所広司
広瀬すず
満島真之介
市川実日子
斉藤由貴
吉田鋼太郎
松岡依都美







この記事はネタバレを含みます。ご了承ください。




なんか二十代も後半になればJOURNAL STANDARDとかSHIPSとかUNITED ARROWSとかで年相応に落ち着いたファッションを選ぶようになるのかと思ってたけど今のところお財布事情という実務的な理由を抜きにしても服選びの嗜好に変化の兆しが全く見られない。なぜだ。

▼三本一気見はキツいという話
三度目の殺人は普段よりも多めに脳みその容量が必要な作品だった。三本立ての二本目に観たのだけど(ちなみに一本目はダンケルク)観終わる頃には完全に頭のキャパシティがいっぱいになってしまっていて、ブレイクに吉野家で牛丼を食べながら感受性の表面張力に負けて右のこめかみあたりからシュポシュポと押し出されてくる感想とも言えない断片的な何かを困った困ったと思いながらただただ眺めてた。
インプットしたものをアウトプットする時は明確に回線を抜いて差し替える感覚なのだけれど、三本目を観始める頃には配線が熱断裂を起こしたみたいに脳みそと五感が連動することを諦めてしまったような状態で、その後に観た散歩する侵略者は生ける屍のようにただただ劇場の椅子に存在だけしていた。
あとで友人のあべちゃんから色々話を聞いて精査した結果、網膜から受け取った情報が脳に届く頃には1/5くらいの大きさになっていたみたいで、元々の貧困なボキャブラリーを差し引いてもだいぶ貧しい感想しか出て来なかった。
「話にならない!(意訳)」と怒られた。ごめん。

▼話の方向性の印象
本当は何をしたのか、そして本当は何をしたいのか、シーンが展開する度に物語が前提からグニャングニャンと揺れ動いているように見えるけれどアバンタイトルで示されるシーンに立ち返ることで観客は一つ状況を俯瞰して観ることができる。
「誰がこの出来事を一番上から見ているか」を把握しながら事態の真意を"考える"という事が大事な映画だと思う。まあだから疲れたんだけど。

本質的にはミステリーをやりたい作品ではないという事もあって表面的なストーリーがだんだん推理のための論理的追求とか真相解明のための理性的判断を踏み外して行くんだけど、その「ちょっと冷静になったほうが良いんでない?」という感情の優先具合に結論ありきな手触りを感じなくもない。
福山雅治は役所広司との関係性において後手を踏みつつも常にある程度の正解を用意した上で次のセッションに進んでいくし(その判断材料から結論までを観客も把握しながら観るし)肝心の会話自体もテンポが悪くて、能動的に観ても受動的に観ても何か面白くないなあってシーンが映画の方向性を示す序盤から中盤辺りにかけて少なくなかった。
今作の場合、映画として物事が転がっていく自然さより物事を転がしているというリードの手触りがどんどん強くなっている感じがした。この印象に関しては映画の結論に繋がっていく要素なので観終わって面白かったって思う部分なのだけど。

▼「わからない」という事は「考えないといけない」という事
是枝さんは毎回テーマを示唆するようなセリフの配し方が上手いけど、本作はそれがより映画を観ている観客に向かってくるようなダイレクトな刺々しさを感じた。
「僕みたいな犯罪者にそんなことを期待してはいけませんよ」と役所広司が言う。福山雅治はある人物を非難するのに「生まれてこなければよかった人間」という性悪性を肯定する表現を使う。「悪いやつは最初から悪いです」なんて弁護士が言ったらおしまいなのだけれど福山はそういう自分の価値観をモリモリと増強させていく。

現実でも巷の凶悪犯罪を報じるニュースで犯罪者は最初から犯罪者であるかのように捉える人は結構多いように思う。その人の人生のありとあらゆる情報を結びつけて「ほーら、後の犯罪者ってのも納得でしょう?」と上手に因果関係の絵を描いてみせる。
人間はもっと複雑で混濁併せ持った生き物だ。感情は本質的なものでも即物的なものでもある。「殺意」だって人間的感情の延長線上にあるものかもしれないし、そうなれば誰だって持ち合わせる可能性がある。たまたまそこに至っていないだけかもしれない。
自分はそうならないという客観性の欠如こそ危ない。

今時は待っているだけで美しい話や面白い出来事がやってくる。誰も真実を疑うこと無くそれに乗っかって語弊や偏見、時には嘘や誤解を平気でばらまき強化する。
自分にとって不愉快な真実になんて誰も興味がなくて、そうやって狭い視野の中ですら見たくないものは見ないしわからないものはつまらないと判断する。ネットリテラシーって言葉があるけれどそもそも考えることすら放棄している事も多い。

この映画は「わからないという事はきちんと考えないといけないという事だよ」と他者の理解できなさときちんと対峙するための想像力を持つことについて言っていると思う。ただそれに対する客席側では話が進むに連れ「もうわかんないや」っていう諦めの空気がどんどん濃くなっていったように感じたのがとても皮肉だった。
携帯はあっちでもこっちでもついたり消えたりしていたし、僕の前の列からは途中から解釈をすり合わせるヒソヒソ話が逐一漏れ聞こえてきた。スクリーンに映る物語とこっち側のいくらかの人達は共通理解の断絶した圧倒的他者の関係だった。複雑な気持ちだった。

▼僕の是枝監督の印象(卑屈)
是枝さんは多分人間の性善性を信じたい人だからどんな登場人物に対してもその人の良心的な側面が作品内で完結する描き方をするんだけど、世界には話が通じない、手の施しようがない極悪人だっているしそういう存在を描いて作品全体で反証するような"正しさ"の提示の仕方のほうが個人的には好きかなあと思う。
ちょっと行儀が良いというか、優等生的というか、正直言うと是枝さんのスキのないリベラルさを前にすると自分の俗悪さに居心地が悪くなるようでなんだかちょっとすっきりしない読後感が結び目のように残る。

★★★★★★★ / 7.0点



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