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映画レビュー:No.671 ハッピーエンド

ハッピーエンド
107分 / フランス、ドイツ、オーストリア
日本公開:2018年3月3日
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:イザベル・ユペール
ジャン=ルイ・トランティニャン
マチュー・カソヴィッツ
ファンティーヌ・アルドゥアン
フランツ・ロゴフスキ
ローラ・ファーリンデン
トビー・ジョーンズ






この記事はネタバレを含みます。ご了承ください。



前髪をあげる髪型が似合わなくなったという事実にショックを受けている。

▼諦観、皮肉、優しさのファルス
とても今日的なディスコミュニケーションを描いていると思うのだけど、それをもはやディスコミュニケーションとも言わずに普通のこととして提示するような諦観、脚本の選択と結果に見る皮肉、そしてそれを「ハッピーエンド」と表現して登場人物を尊重する優しさなど、作品世界を見守るハネケの視点も強く感じる一作。
僕は愛アムール以前の尖っていたハネケ作品は観たことがないのだけれど、愛アムール、本作と優しさを作品に持ち込むようになったのは彼も老境に入って思うことがあるのかなと勝手に想像している。
本作には愛アムールの精神的続編という側面もあるけれど、作中でより重たいものを老境差し掛かったジャン=ルイ・トランティニャンに背負わせているのは若い世代のストラグルを相対的に軽くしているようでもあって、まあ意地悪くも達観しているなあと思ったりもするわけです。

▼わかっているという体を装う欺瞞的なディスコミュニケーション
電話をしながら会話をするイザベル・ユペールや娘の思慕に鈍感なマチュー・カソヴィッツ、人間関係に絶望を見せるジャン=ルイ・トランティニャン。彼らの生活には不寛容や無関心と表現できるほど大きな軋轢があるわけではないのだけれど、一つ一つの関係性に小さな摩擦やすれ違いが見える。
本作で傷つけられる立場として描かれるユペールの息子とカソヴィッツの娘は随所でSOSを発しているけれど親の世代はそれに感心を割くことができない。頭ではわかっているけれど心ではわかっていない、という本質的なディスコミュニケーションの形。
あくまで上辺のコミュニケーションで何かを解決しようとする想像力の欠如が苦々しい皮肉に映る。

▼愛アムールと今作
愛アムールは視点を限定することで主人公たちの関係性を重たいものとして見せていたけれど、本作は視点をザッピングすることで客観的なユーモアが映える作り。狭い舞台でよりパーソナルな感情を突き詰めた前作とそれを相対的に見せる本作の違いはポスターアートにも端的に表れていると思う。
随所に重たいものを折り込みつつそれについて「他の人は全然わかってないな」という滑稽さも際立てる。視点の多様さが作品にいろんな味わいを持ち込んでいる。
他人の事情について「わかってない」のか、「わかっているけれど引き受けない」のかについて少しずつキャラクターが見えてくるのだけど、特にジャン=ルイ・トランティニャン演じる祖父のキャラクターの奥行きは愛アムールを観ている人ほどグッとくるものがあると思う。

▼「ハッピーエンド」について
「死を不幸なものだと捉えると人生は全部バッドエンドになってしまう」と僕の好きなバンドマンが言っていた。
「人生を尊重する」と言葉にするのは簡単だけれど、実際の死を前にしたら簡単にその悲しみを肯定することは出来ない。だからこそジャン=ルイ・トランティニャンのキャラクターは前作から必要な重厚さを引き継ぐ必要があったのだろう。
ラストシーンはディスコミュニケーションへの強烈な皮肉なのか、それとも希望なのか。それでも他者と生きていくしかない世界をありのままに映している。

▼SNSがあるという世界のコミュニケーション
SNSはもはや日常に浸透していて無いものとして扱うことはできない。だけれどそこに過信しすぎると本当に大事なものを見落としてしまうぞ、という希薄なコミュニケーションに対する危機感を煽る側面も。
家族なんだから助け合わなければ、とか目を見て対話をするのが大事、とかそういう感覚自体が古くなりつつあるのかもしれないけれど、僕はどうしてもそれがないがしろにされることに気持ち悪さを感じるので本作が唱える違和感にはとても共感した。
ちなみにハネケはこの映画を取るのにFacebookを始めてみたらしいよ。笑

★★★★★★★☆ / 7.5点


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